あれから2か月近く。

やっと気持ちも落ち着いてきた…というか、別に自分自身に何があったわけじゃないのでこんな書き方はおかしいけど。
今日録画してた番組の編集整理をしてたら当日夕方の録画を見つけて思わず見てしまった。
近くて遠いとこに住んでて、何の被害にも遭わなかった私なりの心の整理的なエントリ。中身はないが激しく長文。
3月11日は大変な日になった。
この前々日の割と大きな地震の時、職場で私と女の子との2人でフロアがミシミシ言ってるのに気付いて、地震こわいですねえって言ってて。実は去年の6月から勤務場所が変わってここで地震を体験するのは初めてだった。今の事務所はビルの4Fで、たいした揺れじゃなくても地味に揺れるのな。(ちなみに前の場所は2Fだったけど建物自体がプレハブっぽい雰囲気のとこなのでトラック通っても揺れてましたw)
そして当日。たまたま女の子がお休みを取ってて、私一人。とフロアに2人位。またミシミシ言い出して、あれ、地震…?と思い始めたところでぐらーんぐらーんって。大きくゆっくり揺れて、気持ち悪い揺れ方だった。観葉植物とかブラインドとかが揺れている。私は割とビビリで揺れとかに敏感な方なのですぐ気がついたんだけど、他の人は全然気付いてなかった。「地震ですよね…」って聞いても「あ、ほんと?あーほんとだー」くらい。ちなみに札幌は震度3だったと思う。外を見たけど皆気付かず(?)普通に歩いてた。
揺れ自体は大きくなかったんだけど、長かったのでどれくらいの震度なのかなーって何の気なしにやふーのトップページ見たら東北で震度7。大変だ、とは思ったけど、前々日の震度6の時にはそこまでの被害は聞いていなかったのでまさかここまでとは思ってもみなかった。
その後も職場で気付いた余震が1回あったかな。あーまた揺れてる、位。座ってたら気付くけど立って歩いてたら気付かない程度だったよう。
しばらくして東京から安否確認の電話が来た。こちらは全然大丈夫なことを伝えてすぐ切った。こっちもかなり揺れたと思われていたみたいで。大丈夫です、と。東京の方がずっと大変だったはず。
夕方に通達が出てて、東京は早々に帰宅指示が出てたり対策本部ができたりしてた。東京も大きかったもんなーと思いつつ、その時間は地味に忙しいので仕事を黙々と。
私が帰る頃にうちのえらい人が会議室にあるTVをつけた。なんか信じ難い光景が映っている。こう言ったら不謹慎だけど、別の世界というか、映画でも見ているみたいだった。
この日は友人達とお茶する予定だったし、ちょっと早く帰りたかったけれども別に帰ったからと言って私がどーなるわけでもないので普通に大通で待ち合わせ。18時の予定でヒロシ前にいたんだけど、18時にヒロシでニュースを始めたのに気付いてふっと後ろ向いたらえらい人だかりができていてびっくりしてみたり。津波のこととかも言っていた気がするけどあんまり覚えてないや。友達とお茶して夜何時かなあ、21時過ぎかな?に帰宅。
この時、父がちょうど入院中で母と二人暮らし中。家に帰ってみると電気とかついてなくて、誰もいない。びびりまくって急に不安になる(しつこいようですが、札幌は被害ありませんでした)。なんで?と思って携帯に連絡したら出たのでちょっと安心。しばらくして帰ってくる。うちの母も意外とビビリなので一人で家にいるのは嫌で寄り道していたらしい(笑)。
TVではもちろんずっと特別報道番組。恐ろしくて、でも目が離せなくて。どこを見ても怖い。自然の前には人間ってなんて無力なんだろう、って思わされる。気を紛らわすために録画して見てなかったバラエティものの消化とかもしたんだけど、あまり笑えなかった。
私と母はその日電気は消してもTVをつけたままリビングのソファ(私はその傍ら)で寝た。余震あったら怖いし。特に私は自室のベッドがハイベッドでよく揺れるのでさらに怖い。結局3日間位ソファで寝た。
あ、一つ家で支障が出たのが電話とネット。これは全く予想外だった。ネットは諦めつくけど電話は困った。他のキャリアでは大丈夫だったのになぜ…と思いつつ。光ケーブルがなんやかんやだったよう。
話は変わるけど、宮城に住んでいる遠くて近い(←家系的に)親戚がいる。今考えると当たり前だけど連絡がつかなくて。震災当日から毎日117にかけ続けた。何も録音されていないことに心底がっかりする。前々日の地震の時に父が連絡を取ったみたいで、その時は大丈夫だよ、なんともないよ、春になったら久しぶりに会おうって言われて安心したらしいのだけど。今回はもしこっちに電話くれてもこっちの電話が繋がらない。そういうこともあり、家の電話が繋がらないことには少し焦った。繋がらない間も携帯から117に電話し続けた。実際の電話番号には怖くてかけられなかった。
ネットと電話が繋がってからはネットで情報を探しまくった。とにかく親戚のうちのあたりがどうなっているのかわからない。土地勘が全くないのでわからないけど住所だと石巻なんだ……石巻の惨状はあちこちで見た。見れば見るほど不安になる。ついったでも安否を気遣う人がたくさん。市単位じゃなくて地域ごとのもっと詳しい情報が知りたい、と思う。
ぐぐるの被災地写真はいまいちうまく見られず。
数日して、国土地理院?だったかな、で被災地周辺の航空写真が公開された。親戚宅付近は写ってないけど、その手前までの写真を見つけることができた。その写真の建物たちは無事なように見えた。津波はきっと親戚のうちまでは届いてない、と思えた。少し安心する。でももしどこかへ出かけていたり、仕事をしていたりで海の方へ行っていたら……?
そのうちぐぐるで安否情報のサイトができた。あれは本当にすごいと思った。避難所のリストの写真も上がってて、最初は写真を1枚1枚探してたんだけど、そのうち追い切れなくなった。たくさんの人の善意に感動した。検索をかける日々が1週間近く続いた。親戚は幸か不幸かかなりありふれた名前なので、ヒットしてもそれが本人かどうかわからないという…。でもここからじゃ何もできない自分が唯一出来るのがネット上で探すことだったんで、続けていた。避難所名簿、新聞のなくなった方リストが元になっているので、名前がたくさんヒットしても亡くなっている情報のうちに入っていたらどうしよう、とも思いながら。気が滅入る毎日だった。
数日経つも連絡は相変わらずつかなかった。父も病院からその親戚により近い間柄の親戚(ややこしい)に確認したりしていたようだったがわからず仕舞いだった。現地では電気や電話も通じてきているようだったけど、何の連絡もない。母はそろそろ覚悟を決めたようだった。
19日。土曜日。外出中に母からメールが来た。連絡が来たと。皆無事だと。全身の力が抜けた。事情があって抜けられなかったけど本当はすぐに母に電話したかった、いや、家に飛んで帰りたかった。用事が済んですぐ母に迎えに来てもらい、その車中で話を聞いた。家も皆も無事。電気と電話が繋がらず、今までどこにも連絡がとれなかったらしい。娘さんは職場から4日かけて帰ってきたそうだ。母は胸がいっぱいでたくさん聞きたいことがあったけど聞けなかったと(笑)。きっと私が電話を取ってもそうだっただろう。母はとにかく父に声を聞かせてあげたかったらしく、大変申し訳ないけど父に電話をしてやってくれないかと言ったらしい。心配で心配で仕方なかった父もやっと声が聞けて安心したようだった。
直接私に関わったのはこれだけだ。たったこれだけ。でも、他人事だけど他人事じゃなかった。普段全然話したりもしない親戚なのに、1週間近く何をしていても落ち着かなかったし暇さえあればパーソンファインダーを確認した。同姓同名で哀しい報告が加わっていたりすると本人じゃないことを祈った。
これがもしもっと自分に近しい人だったら、もし自分だったらどうしていただろう、どうなっていただろう。耐えられるのだろうか。生きていけるんだろうか。すごく怖いけど、日本にいる以上、地震は避けられない。
何の被害もなかった私みたいなのはあー良かった、親戚は生きていた、で終わってしまってもそれで済んでしまうけど、住んでる人達は終わりじゃない。生きている、これからも生きていかなくてはいけない。何を失っても。
今、これから、自分にできることはあるのだろうか。何ができるんだろう。
そんな自問自答を未だにしていたりする。
2か月近く。もう2か月。まだ2か月。忘れられないし忘れちゃいけない。これからも。